その⑧ 知念グスク
以前私が歩いて登ったときには、まだ修復中で、看板も足場(通路)もありませんでした。綺麗になってアーチ門もありましたが、まだ一部修復中です。
友利之嶽(とむいぬたき)が東御廻りの聖地だそうですが、実は見つかりませんでした。
知念グスクから見える海です。
その⑨ 知念大川(ちねんうっかー)
知念グスクの奥にある泉(かー)です。沖縄の稲作発祥の地は受水走水だと思っていましたが、こちらもアマミキヨが初めて植えたのだそうです。
番外2 佐敷ようどれ
そもそも「ようどれ」ってなんでしょうか。
有名なのは「浦添ようどれ」で、こちらは英祖王一族と尚寧王一族のお墓です。
お墓って言えば、もっと有名なのが「玉陵」(たまうどぅん)です。ご存じ、首里城近くの第二尚氏の多くの王様のお墓です。
「ようどれ」について調べると、いろいろあって、共通しているのは 琉球語であり、①夕凪です。 サイトをいくつか見ますと、そのほかに ②極楽 ③墓 ④死者の世界 ⑤静かな場所 なんてのが出てきました
さて、訪れたのは「佐敷ようどれ」です。琉球三山統一を成し遂げた尚巴志のお父さん、尚思紹とその家族のお墓です。ちなみに尚巴志のお墓は読谷の伊良皆、佐敷森(さんじゃーむい)にあります。
佐敷ようどれは、航空自衛隊知念分屯地の中にあります。事前に電話して、「今日午後行っていいですか」とお伺いを立てておきました。入口で代表者の名前などを書くと、自衛官の方にフレンドリーに案内してもらえました。(道案内兼見張り人としてでしょう)
素人の僕は、飛行機もないのになんで航空自衛隊なんだか聞いてみました。すると、知念基地はミサイル基地!なんだだそうです。海をはさんだお隣から撃ってきたら、ゆたしくうにげーさびら。(宜しくお願いします) 自衛隊車両には必ずつく桜マークの航空自衛隊バージョンです。
佐敷ようどれの正面です。自衛官の方のお話だと、こちらに拝みに(うがみに)来る人も結構いるそうです。清明(しーみー)に来る、多分一族の人もいるそうです。
琉球政府の認めた文化財だそうです。(琉球政府は第二次大戦後、沖縄が日本に返還されるまで存在しました)
番外3 フッチャー石
尚巴志の弟、手登根大比屋(てどぅくんうふひゃー、と読むと思う)が明から持ち帰って、アカバンタ(バンタ=崖)からブン投げて、ここに突き立ったと看板に書いてありました。フッチャー石のフッチャーって、名前の大比屋(うふひゃー?)が訛ってフッチャーになったのではないかと想像します。
その⑩ 受水走水(うきんじゅはいんじゅ)
受水
走水は右手のほうにあるのですが、シマッタことに撮り忘れました。
御穂田(みーふだ、だと思う)
親田(うぇーだ、だと思う)
アマミキヨがニライカナイから稲の種を持ってきて親田に植え・・・ と案内板にありました。
番外4 仲村渠樋川(ナカンダカリヒージャー)
ホントは垣花樋川に行くつもりだったのですが、東御廻りをナメてた僕は、島ゾウリなみの薄い底の靴を履いてきたもので、琉球石灰岩のデコボコに足の裏が痛くて痛くて・・・ 垣花はあきらめたのです。(実はすでに知念グスクで「失敗した」と思っていたのです)
なんとも趣のある樋川です。映ってませんが(スマソ)黒い四角の窓の右手には五右衛門風呂が付設されています。
左手には古い立派な石畳道がありました。大きなガジュマルが枝を広げ、木陰を作って、とてもイイカンジな場所でした。
お向かいが仲村渠児童館。難読苗字で有名なナカンダカリですが、仲村渠って地名もあるのです。
南部探訪(東御廻りを中心に)其の三に続く(たぶん最終回)