2019年那覇・南大東島旅行 3日目

9:45那覇空港をボンバルディアで出発しました。カッコいいです。

南大東島空港です。

空港でレンタを借りましたが、これがまた、塗装の剥げたポンコツ軽自動車。しかし走り出すと・・

内地の人には珍しいウージ(サトウキビ)畑 ザワワ、ザワワ、

友人はこの光景に早くもヤラれたようです。

まずはバリバリ岩に向かいました。これには私が大興奮! 年に7センチも本島に近づいている、のが実感できます。

続いて港に行ってみましたが・・・

今日の南大東島は熱帯低気圧の影響を受け「晴れ、ときどき台風」なのです。晴れるとこうなります。

うーん、この色。宮古島の甘い青と違って、透明感があり、引き込まれそうな青。
ここに、亀さんが息継ぎしに上がってきたのです。携帯を出すの、間に合わなかった。。

釣りをしている若い衆がいました。サビキで20㎝のムロアジを釣り上げ、それを生餌にカンパチなど青物を狙っています。私も一時期海釣りにハマった頃があり、海釣り談議で盛り上がりました。私の友人は「大東島では岸壁からマグロが釣れる」と那覇で聞き込んできていました。本当か尋ねると「あそこにブイがありますね。あそこで(深さ)18メートル」とのこと。岸壁からマグロは可能なのでした。

彼から「23日に豊年祭りがあって、そこで相撲大会をやる。その番付を決める相撲を今晩やる」と聞きました。 ・・・これは行ってみなくちゃ。

漁港に行きました。これが、凄い。まあ、ご覧ください。

岩盤掘込み式漁港だそうです。人工の入り江を作ったのです。海に近い岩盤を掘って掘って掘りまくり、最後に左側の海からの入り口を切ったのだそうです。右側の圧倒的な崖というか、岩壁の圧力は物凄いものでした。

よくもまあ、これだけの穴をあけたもんです。

星野洞という鍾乳洞に行きました。ここは前日の予約が必要です。カギを開けに来る人が必要だからです。南大東島のことだし、観光用に整備なんてされてないだろ、という予想で(去年の西表島のケービングの記憶があって)、トレッキングシューズを履いてきたのですが、これがビックリ。帰りは動く歩道で戻れるほどの整備ぶり。

あとで聞いたのですが、竹下さんが首相のときの「ふるさと創生」で1億円配ったお金で整備したんだそうです。これは良い使い方をした、と思いました。鍾乳洞はとても、非常に、美しかったのです。

岡山県育ちの私には鍾乳洞は身近な存在で、井倉洞、地底湖のある満奇洞、山口県ですが秋芳洞など、いずれも複数回行ったことがあるのです。それらと比べて、星野洞は美しいのです。広さこそ、秋芳洞に譲りますが、白さ、細~い鍾乳管など、とても綺麗でした。

来場者があるまで扉を閉めておくのは、滅多に人が来ないからではなく、湿度の管理に目的があるのでした。星野洞の鍾乳石、石筍、石柱は「生きている」のです。だから綺麗なんですね。

次は日の丸展望台です。展望台といってもマンションの4階くらいです。今日は「晴れ、時々台風」という天気で、明日の帰りの飛行機が心配になるほどの風でした。

島がすり鉢状なことがわかります。空との境目は山ではなく、海でもなく、防風林なのです。 15秒後には低い虹が見えます。

ホテルよしざとに泊まります。このホテルがまた内地の常識と違います。3階の私の部屋は洋室で、トイレは独立ですが、お風呂と洗面所が一部屋で、でも湯船と洗面台の間にはカーテンがありません。床には湯桶と椅子まで用意してあり、洗面台の下までビショビショにならざるを得ないのです。1階和室を割り振られた友人の部屋は、湯船もなくシャワーだけ、洗面台もトイレも一緒の空間で「床が濡れるでしょ」とホテルの人に言うと「サンダルを履いて、洗面台やトイレは使う」のだと教えてもらったそうです。なるほど。それはそれで・・

友人の撮った画像です。二重の虹なんて、初めて見ました

ふるさと文化センターで村役場の作った「島の名所・名物」という立派な本をいただいて、ホテルで夕食をいただいたあと、釣りの若い衆から聞いていた相撲を見物に行きました。同じ相手と三番勝負を行い、いろんな人と対戦を重ねて番付を決めるようです。きっちりマワシを締めて、真剣にぶつかり合います。四角に審判もいます。面白く、1時間ほども観戦していました。

遠景です。本格的でした。

ナイトツアーを予約していました。大きなコウモリを見たいのと、星を見たい、と希望していました。ガイドの東さんから電話があり「この風では生き物が出てこない。見てきたけどいない」とのことでした。ツアーは中止です。

そこでもう一つの目的、インガンダルマとナワキリを食しに居酒屋を探しに出ました。といっても居酒屋は「在所」と呼ばれる地域に数件しかありません。

入ったお店で「インガンダルマある?」と聞くと、アンマーは残念そうに「2人前残ってたんだけどね」「(ダンナが)出しちゃえっていうからアソコに」 アソコには地元の衆が酒盛りをしているのでした。取り返してきそうな勢いだったのですが、「いいです、ナワキリください」ということで、ナワキリのバター焼きとフギ炒めをいただきました。ナワキリって、骨が皮から生えてるような、並びです。

結構、刺激的で中身の詰まった1日でした。(いつもの事ながら)明日午前中まで、南大東島です。明日は何が待っているのでしょうか。

2019年那覇・南大東島旅行 2日目

朝食は「沖縄第一ホテルの朝食」を予約していました。十数品目出てきて、600カロリーで、器も見事、と聞いていたし、ネットでも見ていました。

松山の交差点から、一銀通りを入った右側です。というか、私にとっては「神戸バー仲々」の隣、です。「仲々」は大好きで、10回くらい行ったと思います。バーなんですけど、神戸牛と石垣牛のステーキ食べ比べができます。ピザやカレーなんてサイドメニューに至るまで、出てくるものがどれも美味しいのです。

さて沖縄第一ホテルです。

朝8時、9時、10時の入れ替え制で、1回3組です。予約が必須です。で、出てきたお料理がこちら。

パンはあわてて食べてしまい、写真に撮るの、忘れました。他にも何枚かお料理がありました。冬瓜漬けは「謝花きっぱん店のですか?」と尋ねると、「そこしか作ってない」とのことでした。

ミルク神のお面

梁にはミルク神のお面、お料理にはオオタニワタリということからすると、八重山出身のオーナー、料理人と思われます。

私は「これがオオタニワタリだ」と思って食べたことがなく(あのお店のラフテーにはオオタニワタリが添えられていたはず、というのはありました)、長年の課題が叶いました。

西町の金秀(にしのまち市場)で友人と待ち合わせしました。沖縄のスーパーにはあっても、本土の皆さんには珍しいであろう食材を紹介します。

西町金秀の向かいにある「だるま屋そば」で「みそ汁」(局地的に有名)を食べたかったのですが、まだ開店していないし、久高島に渡るフェリーの時間までに、垣花樋川に行きたいってこともあり、だるま屋はグッとこらえて出発しました。

垣花樋川(かきのはなヒ-ジャー)は日本名水百選に選ばれています。

かなりの坂を下りて行きます。前回は足裏が薄いサンダルで、断念したのです。途中 イーユクイイシヌヒライサー(上休み石の平石) なんてのがあるくらいです。

その後時間があったので「カフェくるくま」に向かいました。

レモンを入れると色が変わるハーブティー

オサレな絶景の人気店で、平日の昼前だというのに待ってる人がいました。僕たちはテラスでOKということで、すぐ入れました。

前回、私はバスで海沿いを来て、急坂を歩いて登り、発掘中の知念城に立ち寄り、くるくまで一服し、沖縄刑務所に抜けて、往きとは違うバス路線で帰ったのでした。あらためて、凄いことやったな~、と思うほどの坂でした。

さて、いよいよ久高島です。友人は2度目、私は4度目の訪問です。斎場御嶽(せいふぁーうたき)から拝むのがこの島です。すべてが神様のもので、一草一石とも持ち出してはいけません。フボー御嶽という何人たりとも立ち入れない場所、男子禁制の区域なんてものあります。

島でイラブー汁を食す予定でした。カミンチュ(神人)のオバーが手づかみで捕獲して燻製にするのです。島には3軒の食堂があるのですが、3軒ともイラブーはありませんでした。しかたなく、マース煮(魚の塩煮:沖縄のアクアパッツア)を食しました。

今はガイドさんがいます。内間さんにお願いしました。自前の軽で廻ります。

カベール岬

イラブー汁がない理由がわかりました。明日、燻製にするのだそうです。もっとも燻製にするのに何日もかかるそうですけれど。燻製小屋の裏には金網のなかに、ヘビがウネウネといっぱいいました。これが燻製小屋だなんて、地元のガイドさんじゃないと、わからないですよね。

五穀が流れ着いたイシキ浜、イザイホーが行われる久高殿など案内してもらって、やっぱりガイドさん、いたほうがいいよね、と認識を新たにしました。

帰りに富盛のウフシーサー(沖縄最古のシーサーと云われる)を見れるかと思ったのですが、結構ギリというかピッタリの時間でレンタカーを返し、夕食に向かいました。

久茂地交差点の1本うら、アグーしゃぶしゃぶの「まつもと」です。友人が遊びにきたときは、こちらにお世話になるのがお約束です。でも、今日は二人。肉の皿に花は咲きませんでした。(涙) でも味はいつも同様、すっごく美味しかったす。

明日はいよいよ、南大東島です。天気はなんとかなりそうです。熱帯低気圧は近いけど。

2019年那覇・南大東島旅行 1日目

高校時代の友人との年に一度の沖縄旅行が、いつの頃からか恒例になりました。
岡山在住の彼とは那覇で待ち合わせです。

今年、那覇から何処に行こうかとなった時に、友人の希望は屋久島でした。縄文杉は確かに興味津々、魅力的でしたが、時あたかも屋久島豪雨のニュースのあとでした。その時の映像で、皆さん本格的な登山姿だったことを記憶していて、私の思いは「マジか」でした。

調べてみると、那覇からは鹿児島経由のほかなく、1泊ツアーとなることを考慮すると、週末お手軽旅行は「ムリ」となりました。

2案としては、打って変わっておとなしく久米島でした。はての浜は物凄くチャーミングでしたが、どうせ「何にもない田舎に行くなら」と思うと、もうちょい刺激を求めて大東島ってどうだろうと思いつきました。

南大東島って、台風の時に聞く名前でしかありませんでした。ネットで引くと・・・

南大東島の資料画像です。グーグルからお借りしました。フェリーは5日に一度の入港なので、タイミングが合わないとこの写真は撮れないのです。

砂浜がなく、岩壁を削った港からは人も物もクレーンで上陸、でした。島の中央が一番海抜が低く、大陸とくっついたことがないので独自の生態系が・・ とのことでした。「これは行ってみるしかない、飛行機はあるし」(フェリーだと、欠航率が高いのです) ということで、「のんびりしたい」という思いと裏腹、今年も刺激的な旅行プランになったのでありました。

私は木曜日に那覇入り、金曜に友人と合流、久高島に行って、土・日に南大東島、という計画です。北大東島という選択もあったのですが、南でも十分田舎なのに、もっと田舎なので・・・

前週に台風は行き過ぎ、快晴の那覇空港に到着。おもろまちのホテルに向かうモノレールの中で中身そばが食べたくなり、那覇在住時代の同僚からラインで教えてもらった浦添の高江洲そばに行くことにしました。思い付きでしたので、足としてカーシェアを予約しました。2~3時間の足としては最適です。

予約したクルマがなんとこれ。ハスラーです。一度乗ってみたかった。なんたって、可愛いですもんね。で、浦添の高江洲そばの中身そばがこちら。

じゅーしーおにぎり付き。「中身」というのは豚の中身、つまり内蔵なのですが、何度も茹でることで臭みはありません。鰹だしのやさしいスープで、食感を楽しむものだと思ってます。高江洲そばは有名店で大きな店舗ですが、お昼を過ぎてもまだ満席でした。実は高江洲そばは「ゆし豆腐そば」の元祖だそうです。ゆし豆腐というのは「おぼろ豆腐」の沖縄版ですが、私は今日は「ナカミ」と決めてました。

期待通りの味に満足しました。

おもろまちのホテルにチェックインして、その後、那覇まちまーい(有料ガイド)の「那覇の市場迷宮めぐり」に参加しました。             那覇まちまーいはこちら  http://naha-machima-i.com

このガイドツアーはお薦めです。那覇在住時代少なくとも30数回は参加しました。たいてい参加費は1000円で90分程度、一人でも催行されます。

沖縄赴任から東京に戻って2年、基本に戻って公設市場に行ってきました。公設市場は建て替えするのだそうです。農連市場も綺麗になったと聞きますし、古い沖縄の、良き怪しげな雰囲気がなくなるのはちょっと残念な気もします。

あの独特の匂いがなくなり、オバーも入れ替わり、多少小綺麗になって、でも変わらないものは変わらずで、またそこから新しい歴史が始まるんだと思います。

夜は以前の職場の仲間たちと2年ぶりの再会でした。なんか「1週間夏休みとってきた」程度の久しぶり感でしたが、当時の新人(8期の皆さん)はやっぱりちょっと落ち着いたかな、って気もしました。そりゃ当時ハタチ前後の若者が、2年経てば、人生経験が1割増えたんですもんね。

さて明日は友人と合流、垣花樋川と久高島です。3度目の久高はガイドをお願いしていますし、久しぶりのイラブー(海ヘビ)を食すのが楽しみです。

エアフェスタ(航空自衛隊那覇基地)

毎年1度の空自のお祭りです。基地の中に入れます。基地内の売店で買い物ができます。基地内の売店は非課税だとのウワサがあり、当時喫煙者だった私は興味津々でした。んなわけなかったわけですが。

ブルーインパルス整列の上をJAL機が飛ぶ。沖縄だけです。
F2戦闘機です。この薄さ。F16ファイティングファルコンをベースに三菱重工が中心に開発しました。
F15のエアブレーキ F15の背中を歩くことができるのです! コクピットに座ることもできます。
F15イーグルのオツムとオシリ


露店でF14トムキャットのプラモを買って帰りました。時代はF35ですし、トムキャットは完全退役してしまいましたが、あの可変翼はあこがれですよね。

小岩歴史散歩 第7回 最終回 番外編 岩槻慈恩寺

今から10年前、江戸川区小岩に住んでおりました。その時、ある広報誌に掲載したものです。写真は散逸してしまい(悲しいかなSDが見つからない)、文章だけで申し訳ありませんが、当該地域の知り合いの間では(一部の人間関係のなかでだけ)評判になったものです。いささかの故あって、この度紹介いたします。

一里塚のちょっと北から「岩槻街道」があります。なぜ小岩から岩槻に街道が? 

その答えは、前に一之江の名主屋敷に行ったとき、出会った学芸員の先生に聞いておりました。その昔「行徳の塩」を運ぶ道だったのだそうです。塩といえば瀬戸内なのですが、徳川家康が安定供給のために江戸でも塩づくりを奨励したのだそうです。

なぜ岩槻の慈恩寺まで? となれば行ってみるしかありません。

辿り着くと立派な天台宗の古刹です。寺領百石だそうですから、たいしたものです。徳川様からの庇護があったことが伺えます。社務所でお話が聞けたらと思ったのですが、窓も扉も開けっ放しのまま誰もいません。ま、お守りを黙って持っていっちゃう人はいないんでしょうけど。

案内板に驚きました! 玄奘三蔵法師の「霊骨塔」がそばにある!というのです。あの「西遊記」の三蔵法師のお骨ですよ。びっくりして早速飛んで行きました。

すると、昭和十七年南京駐留の日本軍が、土木作業中に玄奘三蔵法師のご霊骨を発掘して、その分骨が日本仏教会に贈られ、現在この石造十三重の塔に納められているのだそうです。

こんな驚きがあるから、休みの日には体はウズウズ、気持ちはワクワク、行ってみなくちゃわからないとばかりにお出かけするわけです。

さてしばらく綴って参りましたこのコラムですが、このへんで一旦休憩にしたいと思います。また、面白いネタを仕入れまして、お目にかかりたいと思います。皆さま、ありがとうございました。

小岩歴史散歩 第6回 「一里塚」ってどこから一里なんだろう 其の四

今から10年前、江戸川区小岩に住んでおりました。その時、ある広報誌に掲載したものです。写真は散逸してしまい(悲しいかなSDが見つからない)、文章だけで申し訳ありませんが、当該地域の知り合いの間では(一部の人間関係のなかでだけ)評判になったものです。いささかの故あって、この度紹介いたします。

前に聞いたことがありました。一里塚の近くには「渡し」があったそうです。「渡し」ってくらいですから、河っぺりに違いない。例によりまして、自転車でウロチョロしておりましたら結構簡単に見つかりました。(実は前回の「逆井の渡し」を見つけるのは2度の捜索が要ったのです)

千葉街道の市川橋を渡った左手に小岩市川の関所跡があります。その解説のなかに佐倉道がありました。

これがまた、どうもおかしい。佐倉道って千住から始まるらしいのです。日本橋から佐倉に行くにあたって、なぜ千住や新宿(にいじゅく)を通るのでしょう。さらに、関所跡の小岩側には「御番所町の慈恩寺道道標」があります。

どうも関所になる前は番所だったらしい、とも思いましたが疑問はここから。道標には「右 せんじゅ岩附志おんじ道」とあるって解説に書いてありました。岩槻って埼玉です。岩槻慈恩寺って何のご縁があって、この小岩から街道があるの? これはまた、例によって実地踏査しよう(行ってみるしかない)と思い定めた次第です。

その前に、佐倉道です。古い地図を見ると、日本橋から日光街道千住の宿、水戸街道新宿(にいじゅく)、そこから分かれ南下して小岩市川の渡しから下総へ、というのが幕府公認佐倉道でありました。さらにその先にある成田詣での人も多く、成田道とも呼ばれたようです。

つまりは《「一里塚」ってどこから一里なんだろ?》の答えは、当時の要衝であった千住の宿(千住宿は品川宿、内藤新宿、板橋宿と並ぶ「江戸四宿」の一つでした)から二里目でしょう、というのが結論です。

でも日本橋から佐倉に向かうのに、千住経由はどうみても遠回りです。佐倉の殿様は公認佐倉道をお通りになったのでしょうが、普通の旅人は元佐倉道(平井~逆井~五分一~小岩市川の渡し)を使ったのでしょう。

次回は埼玉岩槻の慈恩寺のお話です。これがまた、かなりのビックリ発表がありますのでお楽しみに。

小岩歴史散歩 第5回 「一里塚」ってどこから一里なんだろう 其の三

今から10年前、江戸川区小岩に住んでおりました。その時、ある広報誌に掲載したものです。写真は散逸してしまい(悲しいかなSDが見つからない)、文章だけで申し訳ありませんが、当該地域の知り合いの間では(一部の人間関係のなかでだけ)評判になったものです。いささかの故あって、この度紹介いたします。

一里塚から話題は五分一(ごぶいち)へ。今回は五分一のお話です。

結構、日本中にあるんです。五分の一(市)とか四分の一とか。
実は税率だったり、水利権や、作物の権利の取り分だったりするそうです。」

小岩の五分一の由来はというと、いろいろあって、定説はないようです。私の入手したところでは、①「権兵衛さんちの淵」が元でゴンブチ、それが訛ってゴブイチ ②湿地だったから、余りに貧しくて2割の税金(年貢米)で勘弁してもらった ③天領だったので税率が優遇されていた ④川魚の産地でした。魚の税金は2割だった(魚はお米に換えて払ったとも)⑤日本橋から船橋までの5分の1の地点(なんともユニーク!)などがあります。どれだったのでしょう。

さらにこれを調べる過程で、これまたわからない話を聞きました。五分一のあたりにも一里塚があったというのです。でも現在未発見だそうです。

五分一橋は昔、行き交う人で賑わっていたそうです。遊郭もあったとか。日本橋寄りに逆井の渡しがありました。今は旧中川に架かる「逆井橋」にその名を残しています。歌川広重の浮世絵に描かれているところです。

ところで千葉街道って、五分一橋に八蔵橋、菅原橋に二枚橋です。これが昔の元佐倉道です。橋だらけです。昔はよっぽどズブズブだったんでしょうね。

だいぶお話が横道にそれてしまいました。もとのお話に戻って、一里塚ってどこから一里なんだろ? についてはまた次回から再開します。

小岩歴史散歩 第4回 「一里塚」ってどこから一里なんだろう 其の二

今から10年前、江戸川区小岩に住んでおりました。その時、ある広報誌に掲載したものです。写真は散逸してしまい(悲しいかなSDが見つからない)、文章だけで申し訳ありませんが、当該地域の知り合いの間では(一部の人間関係のなかでだけ)評判になったものです。いささかの故あって、この度紹介いたします。

五分一橋(ごぶいちばし)聞いたことはあるけど、どこだっけ。まずは行ってみよう、自転車で。(単身赴任なのでクルマがありません)

千葉街道を中川の方まで真っすぐ行ったところで、信号の名前にありました。でも、もう川なんてなくて、信号と碑があるだけです。面白い地名だな~と思いつつ碑を見ると「元佐倉道」という道があったとのことです。千葉の佐倉に行く道なんだ、そうなのか、じゃ、なぜ佐倉に行く道があったのでしょう。

インターネットで「佐倉」と引くと堀田氏の名前が出てきました。江戸幕府末期の老中です。ハリスと交渉した人です。(2019年の今、加筆訂正させてください。堀田氏は幕末だけでなく、戦国時代以来の名門です)

というくらいで幕府の偉い人の家に行く道ですから、佐倉道は五街道に準じる重要さであったのでしょう。でも、ここ五分一の碑の佐倉道には「元」がついています。ということは、普通の「佐倉道」もあったということです。

さてそれはいずこに・・・。その疑問にトライする前に調べたい、興味がありました。五分一という地名の由来です。

なんでしょう、5分の1って。

閑話休題 「五分一」には3等三角点があります。地図を作るときに基準になる点です。お店屋さんの前の道路の、白線の上にありました。ご興味のある方は…. あんまりないですよね。

小岩歴史散歩 第3回 「一里塚」ってどこから一里なんだろう 其の一

今から10年前、江戸川区小岩に住んでおりました。その時、ある広報誌に掲載したものです。写真は散逸してしまい(悲しいかなSDが見つからない)、文章だけで申し訳ありませんが、当該地域の知り合いの間では(一部の人間関係のなかでだけ)評判になったものです。いささかの故あって、この度紹介いたします。

私の勤務する○○は、この6月おかげさまで○○周年となりました。その記念行事で「50年前の写真展」を開催しました。お立ち寄りいただいた方も多いと思います。

そのなかに、何気ない、そんなに目を引くこともない小さな祠の写真がありました。それが昭和30年代の「一里塚」でした。ほんとに塚があったのです。

今は区役所通りの出口のあたりに信号の名前でしか残っていません。そこで私の悪い癖、いや好奇心がムラムラと頭をもたげてきました。

「一里塚」は日本橋を起点に一里ごとにある、くらいの知識はありました。ということは、そもそもこの辺に街道があったはずでして・・・ ここから私の小岩めぐりが始まりました。

まず地元の商店街の人に訊きました。「あのへんはね~、昔『渡し』があってさ、関所があったんだよ」

そうでしたが。街道と言えば「五街道」くらいしか頭に浮かばなかった私ですが、関所まであったという、このあたりは何街道だったんだろう?と、思っているうちに、翌日。

「高橋さん、聞いてみたらさ、五分一橋から一里じゃねぇかってさ」と早速情報が入りました。この親切! なんとも下町であります。それも「五分一(ごぶいち)」なんて、なんともチャーミングな付録付き! だって、5分の1ですよ。

疑問は膨らむばかりです。実は後から思えば、一里塚は千住宿から二里目であったと江戸川区史に載っているのですが、まずはゴブイチに行ってみました。

・・・続きは、次回をお楽しみに‼


小岩歴史散歩 第2回 「鹿骨」縁起 其の二

今から10年前、江戸川区小岩に住んでおりました。その時、ある広報誌に掲載したものです。写真は散逸してしまい(悲しいかなSDが見つからない)、文章だけで申し訳ありませんが、当該地域の知り合いの間では(一部の人間関係のなかでだけ)評判になったものです。いささかの故あって、この度紹介いたします。

鹿島の神様、武甕槌命(たけのみやつちのみこと)を勧請したのは、768年に平城京鎮護のため創建された春日大社でした。

「春日大社って、あの、鹿がいっぱいいる奈良公園の?」 そうなんです!

言い伝えですが、鹿島大神は白い神鹿(しんろく)に乗って、大勢の鹿を引きつれ、1年がかりで奈良までお移りになったそうです。(一部には飛んで行った説もありますけれど)

・・・ということは、ご存知奈良公園のあの鹿は、鹿島神宮の鹿のお友達か兄弟の子孫だった‼ のです。

そして、我が小岩の「鹿骨」は、そのお移りになる途中、神様の杖の役割をしていた鹿が倒れたまさにその場所だったのです。

もちろん想像ですが、ツジツマはピタリです。これに気づいたとき、私は暫く声を失いました。

そしてさらに調べてみたくなったのは、・・・「ということは静岡あたりにも、鹿島の神様がお移りになった痕跡が残っているのでは?」ということでした。

これは、今度の異動で静岡か愛知になったら、その時、調べることにいたしましょう。

次回は、疑問は深まるばかりの「一里塚」についてです。