気仙沼と平泉 二泊三日旅行記 その4(最終回)

 平泉2日目は中尊寺さんをゆっくり廻る目的で、JRで一駅、一関から平泉に向かいました。るんるんバスまで40分あり、観光案内所に行くと「あなたの足なら20分、タクシーでも1,000円かからないよ」と教えられ、月見坂のしんどさを昨日知っている僕はタクを選択しました。

違うコースで行くと、新しい発見はあるもので、中尊寺ハスの池がありました。 ご存知、四代泰衡の首を入れた首桶から出てきたハスの種が800年の年を超えて花を咲かせたものですね。

正面にはこんなお堂がありました。

 この素敵な坂を超えるとすぐ金色堂です。

讃衡蔵の売店で音声ガイドを借りました。お土産を買ったり送ったりして、ここのお姉さんには親切にしてもらいました。平日の朝ということもあり、他にお客さんが一人もいなかったこともあると思います。

昨日はお昼を食べる間もなく観光とお参りを優先し、寒さもあいまってここの売店で甘酒をいただいたのでした。

讃衡蔵の仏像や収蔵品を、音声ガイドに従って、すべてを相当ゆっくりと拝観しました。ほぼ貸し切りなのはありがたかったです。

金色堂では仏像の一人ひとりのお顔までよく拝見しました。7倍の単眼鏡を持忘れてきたのが残念でなりません。光背の彩色や、台座を飾る螺鈿や、高欄というのでしょうか、木材の角には象牙をはめ込んである様子など、よ~く眺めたかったのです。この画像は画像まとめサイトから拝借しました。

でも、昔の人はこんなに近くで眺められたはずはなく、全体として極楽を模したお堂を見たのだろう、と思い納得させました。

ただ、以前NKKスペシャルで見た、須弥壇の4㎝×4㎝の螺鈿は確認しました。沖縄の夜光貝を持ってきたそうです。沖縄で琉球漆器の工房にお邪魔したとき「中尊寺には4㎝×4㎝の螺鈿があるって聞いた」と言ったら、職人さんが目を丸くしていた代物です。ついに見ることができました。

音声ガイドはパンフの文字をクリックすると、その場の説明が流れる仕組みで、毛越寺さんなどを含め平泉中の名所名跡をカバーしています。昨日の復習ということで全て拝聴しました。

なんだかんだ5時間くらい中尊寺さんに滞在して、歩いて平泉の駅に向かいました。途中、卯の花清水に寄りました。 

芭蕉に同行していた曽良(そら)が、義経のために老体に鞭打って討ち死にした兼房を称えて「卯の花に 兼房見ゆる 白毛かな」と詠んだのです。もっとも兼房は架空の人物だって聞いたことがあります。

テクテク歩いていくと、無量光院跡に出ました。 今、発掘の最中です。

早めに駅に向かったのは、盛岡以北で低気圧による強風が吹いていて、東北本線が遅れている、と知ったからです。駅に着くと、運休もあったけど、95分遅れ!ですがとにかく動いていることがわかりました。

ここは「わんこ蕎麦」だ、と思い、芭蕉館に行きました。昨日のレンタカー屋さんのお兄さんも芭蕉館って言ってましたから、地元では有名なお店と思われます。 てっきり蕎麦をよそってもらうものだと思っていたら、今は写真のように自分で移して食すのがスタンダードのようです。中尊寺駐車場周りの蕎麦屋のサンプル写真もこうなってました。

95分遅れの電車で一関に着きました。警戒しすぎて新幹線まで2時間以上ありました。それで観光地図をみて、世嬉の一の酒の民族文化博物館に行ってみることにしました。

 

杉玉です。私の祖母の家が造り酒屋だったので、そうそう、こんなのもあったよな、って感じでした。

 

こんなポスターもありました。

駅まで戻って、まだ時間があり、喫茶・軽食の店に入りました。そこで見たのが「曲がりネギの蕎麦」の文字。昼にわんこ蕎麦食べたよね、と思いつつ、興味のほうが勝り、頼んでしまいました。

 確かに甘い。辛くない。ネットで見ると、育ったネギをいったん抜いて、斜めにしてまた土をかけるんだそうです。

その後新幹線はほぼ時間通りに発車、ず~っと、退職したら行くんだ、と思い描いていた中尊寺を訪ねる「気仙沼・平泉の旅」を終了しました。

気仙沼と平泉 二泊三日旅行記 その3

中尊寺さんの町営駐車場に入れようとして「武蔵坊弁慶の墓」があるのに気づきました。

中尊寺さん入り口の月見坂です。 ご覧のとおり人影まばらで、伊達家が植えたという杉並木は立派なもので雰囲気があります。

結構きつい坂ですし、雪の影響か、ぬかるんでいます。ヒールのある靴を履いた女性とすれ違いましたが、滑ってすべって、左のロープにしがみついていました。

弁慶堂です。 背負っていた笈だの色々収蔵品があると書いてありましたが、シーズンでしょうか、扉が閉まっていて見ることができませんでした。

薬師堂です。

郵便ポストは雰囲気を損なわないためでしょう、こんな色でした。

本坊表門です。

本堂です。

大日堂です。 小ぶりなお堂ですが、入っている仏像はたいしたものです。中央に金剛界大日如来、左手には千手観音と脇侍、不動明王と童子、右手には胎蔵界大日如来と不動三尊が置かれています。しばらく動けませんでした。

次に讃衡蔵(宝物館)に向かいました。入ってすぐの、中尊寺本尊の阿弥陀如来坐像、両脇の薬師如来坐像に圧倒されました。一丈六尺の仏様の坐像ですから、2.67mの大きさです。その偉容は圧巻です。でも、しばらく拝顔しているとやさしいお顔に見えてくるから不思議です。

私に続いて高齢のご夫婦が入ってきました。ごく小さな声でお経をあげました。とてもうらやましく思いました。中尊寺さんは天台宗で、実は私も天台宗です。般若心経を覚えておきたい、と思いました。

紺紙金銀字交書一切経は期待通りでした。驚いたのは金字宝塔曼荼羅です。紺地に金で細かく宝塔が書かれているのは知っていましたが、本物を見て驚きました。宝塔の絵はお経で書かれていたのです。12世紀の美しいタイポグラフィーです。(なんでこんな言われ方しないのかな?)

金剛華鬘の繊細さにもシビれ、螺鈿にも感激しました。華鬘(けまん:仏堂などの飾り)を模した栞がこちら。

次に金色堂が待っているもので、後ろ髪を引かれる思いで讃衡堂をあとにしました。

TVなどの映像で見慣れた金色堂覆堂がこちら。 

金色堂と阿弥陀様は思っていたよりも小さかったです。直前に見た讃衡蔵の本尊様に圧倒されたあとだったからだと自分で思います。脇侍は観音菩薩、勢至菩薩で、地蔵菩薩6躯、持国天と増長天の計11躯で構成され、これが3対あります。すべてが金で覆われ、金ピカでありながら華美とは思えず、静謐のなかに荘重な空気を作っていました。なかでも驚きは持国天立像です。衣を翻し踊るようなポーズです。躍動感がある仏像は初めて見ました。 この写真は他のサイトからお借りしました。

お経をしまっていた経堂です。

白山神社能舞台です。 雰囲気バリバリです。

以上で中尊寺さんをあとにし、平泉文化史館に向かいましたが閉館していました。次は高館義経堂です。こちら。

供養塔です。

高館から見る北上川です。

その後、柳之御所資料館に行きました。完全貸し切りでした。藤原氏の政庁だったそうです。お寺と違い、生活感のある収蔵品が多く、面白かったです。

帰り道の平泉道の駅で見つけました。  「がんづき」と「じゅうね餅」です。見たことも聞いたこともないシロモノです。

レンタを返す時、お兄さんに訊きました。「がんづきって知ってます?」「知ってますよ」と即答でした。私の表現で言えば、蒸しパンです。「じゅうね」はエゴマです。

以上、気仙沼と平泉の旅2日目でした。

気仙沼と平泉 二泊三日旅行記 その4 に続く

気仙沼と平泉 二泊三日旅行記 その2

実はこの前々週12月初旬、北海道に行っておりまして、美瑛町でマイナス11.4度を経験しました。この時期としてはかなりの寒波で、当然、雪です。

気仙沼は海沿いだから雪がほぼ無いことに違和感はなかったのですが、内陸の一関・平泉は当然雪だと思い込んでいました。

ところが、雪はほとんどありません。いそいで前夜、ネットでレンタカーを予約しました。「るんるんバス」で廻ろうと思っていたのですが、助かりました。

レンタがあると、パスするつもりだった厳美渓や達谷窟(たっこくのいわや)見物が可能になります。

厳美渓です。 デコボコ岩に氷が張っていて、危ないです。すぐそこで立入禁止になっています。冬以外の季節に来るところです。

近くに達谷窟毘沙門堂があります。征夷大将軍坂上田村麿の創建という歴史です。 毘沙門天を祀っているのに鳥居があります。神仏混淆ですね。毘沙門堂がこちら。  岩をえぐってお堂を建てています。結構な迫力です。立派なお寺です。奥には大きな摩崖仏もあります。大分県で見た摩崖仏以来の大きさでした。

続いて毛越寺さんに向かいました。

大泉が池の州浜です。

 半分凍っています。

 写真では薄暗いとしか見えないのですが、とにかく人影まばらということも手伝って、森々とした杉の木立に囲まれて、鈍色に霞む空気は幽玄とした雰囲気でした。とても良かったです。浄化される気がしました。癒される、というのはこういうことかと初めて思いました。

実は翌日もう一日平泉を廻る予定にしていたのですが、毛越寺さんは記憶がすごく鮮明で、なぜか「記憶を大事にしたい」なんて思って、翌日二度目の訪問はしませんでした。

池中立石です。

池に水を引いた鑓水です。

 常高堂まえのお地蔵様です。お地蔵様と気楽にお呼びしますが、地蔵菩薩というくらいですから、仏様のなかでは如来に次ぐランクです。菩薩でも装身具をあまり身に着けません。日本では道祖神とごっちゃになっていると思っていますが、子供の守り神(仏様ですけど)としての信仰もあることから、親しみやすい姿かたちがほとんどです。多くの仏様の前では背筋が伸びるのですが、お地蔵様の前ではホッと力が抜けることが多いです。なかでも、このお地蔵様は微笑みをうかべているようであり、こちらも笑顔になりそうです。

宝物館の熊野三神像です。神様でも脇侍というかは存じませんが、真ん中の神様より右脇の椅像のほうが高いのは珍しく思います。 こんな写真を撮ってしまいました。撮影禁止の札が、探したけど無かったと思うのです。そんなはずはなかろ、とは思うのですが、とにかく貸し切り(入館者が僕一人)だったので、こっそり撮ってしまいました。

とにかく毛越寺さんにはシビれました。

観自在王院跡を横目に見て、次に向かったのが義経妻子の墓です。  義経公のお墓はここか、と感慨がありました。ここには駐車場がありません。12月というシーズンだから置ける場所があった、というところです。

次には平泉文化遺産センターに向かいました。ブラタモリの平泉編を見ていない方は、こちらにある毛越寺さんのCGをご覧になることをお薦めします。番組で紹介されたのと同じ、毛越寺さんの、今はない臨池伽藍と池に架かる橋をCGで再現したものを見ることができます。でも、今日の僕の感想としては「見てみたいけど、再建などせず、無くていい」でした。それほど今日の荘厳な雰囲気にマイッたのでした。

そしていよいよ中尊寺さんです。ドキドキしながら運転しました。

気仙沼と平泉 二泊三日旅行記 その3 に続く

気仙沼と平泉 二泊三日旅行記 その1

中尊寺さんには、昔からお参りしたくて拝観したくてずっと機会を待っていました。

子供のころ何度も読んだ義経記(少年少女世界の名作文学、山本和夫著、川端康成監修)で僕のヒーローの1人だった源義経ゆかりの地であり、終焉の地ですから、ずっと行ってみたいと思っていました。

また、学生のころから始まった重要な趣味の一つである寺社仏閣巡り、お参りしての仏像拝観は大好きで、金色堂はどうしても行ってみたいところでした。

私は天台宗で、中尊寺さんはその東北大本山というご縁もあります。

何年か前のNHKスペシャルで取り上げられ、先月はブラタモリで紹介された場所でもあり、興味はいよいよ増すばかりでした。

それと、このたび旅行を実現するにあたり、もう1ヵ所寄りたい所がありました。

津波の痕を、この目でみておきたかったのです。後世に語り継ぐべきだと思っていますし、そのためにも体感しておきたかったのです。

宿は一関でしたので、気仙沼を訪れることにしてコンベンション協会語り部さんにガイドを予約しておきました。

一関から気仙沼行きの列車は2両編成の単線です。

気動車です。単線の気動車(ディーゼル車)てのは味わい深いです。久しぶり。

12時前、気仙沼駅に到着、まずは昼食です。事前に情報を得ていた「あさひ鮨」です。タクシーの運転手さんもお勧めでした。

海鮮丼  見るからに豪華です。

鮪のスジの串焼き  安くて旨い。お勧めです。

昼食後、いよいよ震災あとを巡るツアーです。

上のほうに「ここまで水が来ました」の表示板があります。

気仙沼港です。

建設中の防潮堤です。

盛り土をしています。 土留めの袋に数字が書いてあります。土留めは他県からの借り物で、返すにあたっての確認用なのだそうです。

民間の船は「〇〇丸」ですが、官庁の船には「丸」はつかないんだそうです。そういえば自衛艦には「〇〇丸」はないですね。これは水産庁の船です。 

 あとから来た船のロープは、すでに架かっているロープの下からくぐらせて舫うそうです。そういわれてみれば、そうじゃないとね。

 補助の申請が遅れた家は、まだ被害の痕がそのままです。

語り部さんが言っていました。「津波が来るとなったら、上へ逃げるんだ。40分あるからっていってもクルマじゃ渋滞で逃げられない」「引き波がすごいんだ。海岸あたりの土は1メートル持っていかれた。防波堤の下には砂がない」

  陸まで持ち上げられた船だそうです。英2文字は都道府県名で「MG」は宮城の船の印です。

復興途中の、妙に小綺麗な市営住宅になにか寂しさを感じたり、土を盛っている工事中のところを見て、頑張ってくださいと思ったりしながら気仙沼をあとにしました。

一関に戻って、前沢牛を食べに出ました。

 前沢牛のロースとカルビ、岩手短角牛だそうです。

 タンと冷麺もいただきました。

以上1日目でした。

尚巴志のお墓

ウチナンチュ(沖縄地元民)でも知らない人が多い尚巴志のお墓です。

王様のお墓といえば、首里の玉陵(たまうどぅん)です。こちらは有名で規模も大きく、訪れる人も多い、でも第二尚氏以降の王家の墓です。

北山、中山、南山の、三山に棲み分けていた琉球を統一したのが、尚巴志(童名「さはち」、尚巴志は当て字という説も。中山世譜では尚姓を明から賜ったことになっている)でした。

ウチナンチュには人気の高い英雄ですが、何故かみんな、お墓がどこにあるか知りません。

歴史は勝った人が、自分に都合が良いように書き換えるものです。尚巴志王統から王の座を簒奪した金丸(第二尚氏の始祖、のちの尚円王)としては、三山統一の英雄、尚巴志の色を消したいと思うのは当然だと思います。

金丸のクーデターのあと、第一尚氏の家臣(親戚)が一族の遺骨を掘り出し、中部の山中に隠したと思われます。

ネットの先達の記録を参考に、レンタカーを借りて行ってみました。

まずは喜名番所で観光マップをゲットしました。 観光マップは表には出ていないのですが、係のアンマーに言うと、出してもらえました。

尚巴志のお墓に行こうと思う、と云うと、私の頭のてっぺんから足まで見渡して、「アナタの思っているより険しいよ。木や草もこうやって行くようだ」と腕を左右に振るのです。「今どきだからハブの心配もあるし」と脅すのです。梅雨の時季で、小雨交じりでもありました。

アンマーに道順を教えてもらい、出発しました。ネットでは「米軍嘉手納弾薬庫地域として接収されていて、黙認耕作地」だとか「警告看板がある」などと書いてあったので、行っていいものなのか、ちょっと心配だったのですが、これで安心しました。

その「警告看板」がこちら。

国道58号線から向かう道は未舗装です。未舗装道路を走るのは、以前の東村行き以来です。もちろんすれ違いはできません。でも轍(わだち)があって、車が通ることを示しているので、さほどの心配はしませんでした。

途中には こんな妙に新しい石標があり、行って見ると、こんな拝所がありました。離れて写真を撮りたいのですが、後ろが急坂で、濡れた落ち葉でフカフカで下がるのは困難でした。ハブも怖かったし。

こんな石畳も一部にありました。 確かな歴史を感じさせます。

上ぬカーで突き当りです。伊良皆集落の皆さんの管理なのでしょうか、意外なほど綺麗で、水量も豊富です。大きな亀がいましたが、カメラを用意している間に潜ってしまいました。

ここが墓所への入り口です。

右の石標がこちらです。 

こんな所を進みます。 濡れたジャングルは雰囲気があります。いい感じです。でも土がむき出しのところは滑りますし、枯葉の積もったところはハブが怖いですし、なんか神経を使いました。

この細道の途中にも、小さな拝所がありました。

クルマの通る道から100何十メートルといったところでしょうか、多少のアップダウンはありますが、そんなに遠くないところにこの石標がありました。

石標の右上の墓所の全景がこちら。

お墓の中央です。 墓所の知名度は低いとはいえ、日常で拝む(うがむ)人がいるのです。

南部佐敷出身の成り上がりにして(誉め言葉です)、中山王武寧を追っ払い、南山王他魯毎(たるみー)を滅ぼし、北山王攀安知を自死させ、という策士にして相当な暴れん坊だったに違いない尚巴志ですが、一代の英傑に違いなく、畏敬の念をもって手を合わせました。

その後、阿麻和利のお墓を探したのですが見つかりません。ガイドマップには道もなく、この辺、て感じで人にも聞いたのですが、無理でした。

トリイ通信施設入口(トリイステーション、グリーンベレーもいる)です。 

その先にはこんな交差点がありました。 信号を拡大すると・・  なんて目出たい・・・

 

次に目指したのは 赤犬子宮です。琉球古典音楽の始祖です。詳しい物語は沖縄にありがちな、おゲレツ伝説を含みますので、ご自身でお調べください。

ウガンでいる人がいました。 なので遠景です。お重まで持ち込んで本格的です。これが、綺麗なネーネー(若い女の子)2人です。向こうも驚いたでしょうけど、僕も驚きました。

さて、沖縄生活も短くなった僕には、もう一つ行かなくてはならない場所がありました。

  

  米軍上陸の地碑です。鉄の暴風といわれた攻撃はここから始まりました。こんな綺麗な所で信じられませんが、あんな光景を見たくない、やっちゃイカン、と思いました。

1日南部探訪(東御廻りを中心に)其の三 

その⑪ ヤハラヅカサ

 アマミキヨが久高島に上陸し、その後本島に降り立った、その最初の地だそうです。1m20cmほどのこの石碑は、満潮になると海中に没し、見えなくなるそうです。すごく幸い干潮時の訪問となりました。

 珊瑚の砂浜、東には久高島、とてもいい所です。

 

その⑫ 浜川御嶽 

その⑬ ミントングスク

浜川御嶽とミントングスクは見つかりませんでした。この辺、というのはわかったのですが、どうも個人の所有地内らしいのです。

 

その⑭ 玉城グスク(たまぐすくぐすく)

 グスクの本丸門です。この門はニライカナイに通じるとされていて、夏至と冬至には太陽の光がまっすぐに差し込むのだそうです。

 門から見える海です。今日一番ってほど美しい光景でした。

友人が言いました。「400年前の王様もこの景色をみてたんだろうな」 ・・そうですね。ため息が出そうでした。

 

番外5 富盛の大石獅子(うふシーサー)

 沖縄で最古のシーサーと言われます。横から見ると凛々しいのですが・・・ 正面から見ると、どうにもマヌケです。 ミニラ? でもこのシーサー、WWⅡを今に伝えています。このシーサーを盾に身を隠しつつ銃を撃つ写真が旧海軍司令部壕に残っています。その証拠にシーサーの身体には弾痕がいっぱいあります。写真にも丸い穴があいています。

ここは  グスクというくらいで、小高い丘の上です。戦争って、丘の取りっこなんですね。(おもろまちの、1日に4回もてっぺんの旗が変わったというシュガーローフが有名です)

 

 村を火から守って、凛々しくマヌケで、悲しい歴史を知るシーサーを慰めるかのように、ユリが美しく咲いていました。

 

番外6 嘉手志ガー(カデシガー)

 きれいな水が湧いていて、この日も子供たちは大喜びで遊んでます。その昔、南山王の他魯海(たるみー)が中山王の尚巴志所有の金屏風とこのガーを取り換えっこしてしまい、それがもとで南山の衰退が始まった、と言われるガーです。タルミー、なんてお人よしなんでしょ。それに引き換え・・・ モゴモゴモゴ。。

 

番外7 与座泉(ユザガー)

 製糖用水車だそうです。なかなかの規模です。なによりガーとして現役で、農家の人が野菜を洗っているほどの綺麗さと水量です。通りがかりでタマタマでしたが、いい物見ちゃった、って感じでした。

 

番外8 日本一カッコいいバス停

 「クール」です。何か文字が消えているわけではなく、反対側も「クール」でした。

 

番外9 糸満ファーマーズマーケット

 ここには何度来ても圧倒されます。なにせ一面の緑です。

 甘熟トマト、すぬい(モズク)とモズクのたれ、パッションフルーツを購入しました。すぬいはすっごく美味しく、毎日食べています。本土で売ってるモズクとは太さ、歯ごたえ、長さが違います。

パッションフルーツは完熟待ちです。表皮がペコペコになって、いい匂いがするまで待たねばなりません。熱帯果物は追熟が非常に大事で、たとえばホテルのビュッフェに並ぶスターフルーツは酸っぱいだけですけど、完熟すると、まるで「ん?梨?」という味と食感になります。

 

番外10 保栄茂(びん)

 今日の目標の1つ、保栄茂(びん)です。だいぶ消えてますが、バス停です。交差点の信号の地名表示が見たかったのですが、交差点はありませんでした。

バス停の待合です。

 

さらに道標です。

 

 

オマケ 南部ではなく、浮島通りの南島製菓さん

閉店に間に合うので寄りました。

 クンペン(コンペン)の名店です。クンペンは琉球王国時代から伝わる伝統琉球菓子の一つです。現物の写真はありません。ついあわてて食っちまいまして、また今度載せます。・・・スマソ  //orz.

琉音という琉球料理屋さんのデザートの一つに出てきまして、こちら南島製菓さんを教えてもらいました。他のお菓子屋さんのクンペンは餡にピーナツバターを使うのですが、こちらではゴマと黒糖だけの伝統を守っているのです。上品な甘さで、いっぱい食べても胸やけしません。甘ずぎず、いっくらでも食べられる感じです。オススメです。  ちなみに私の一番のオススメ琉球菓子は新垣カミ菓子店の「花ぼうる」っす。これはどっかでこのブログで取り上げます。

 

以上、3本建てでお送りしました 1日南部探訪(東御廻りを中心に)はいかがでしたでしょうか。これだけを1日で廻るって、スゴくないすか? これにつきあった友人も、です。ずいぶん疲れました。 でも、面白かった。

梅雨入り前日の晴れた日のことでした。   ・・・オシマイ。

 

 

 

 

 

 

 

1日南部探訪(東御廻りを中心に)其の二

その⑧ 知念グスク

 以前私が歩いて登ったときには、まだ修復中で、看板も足場(通路)もありませんでした。綺麗になってアーチ門もありましたが、まだ一部修復中です。

友利之嶽(とむいぬたき)が東御廻りの聖地だそうですが、実は見つかりませんでした。

 知念グスクから見える海です。

その⑨ 知念大川(ちねんうっかー)

 知念グスクの奥にある泉(かー)です。沖縄の稲作発祥の地は受水走水だと思っていましたが、こちらもアマミキヨが初めて植えたのだそうです。

番外2 佐敷ようどれ

そもそも「ようどれ」ってなんでしょうか。

有名なのは「浦添ようどれ」で、こちらは英祖王一族と尚寧王一族のお墓です。

お墓って言えば、もっと有名なのが「玉陵」(たまうどぅん)です。ご存じ、首里城近くの第二尚氏の多くの王様のお墓です。

「ようどれ」について調べると、いろいろあって、共通しているのは 琉球語であり、①夕凪です。 サイトをいくつか見ますと、そのほかに ②極楽 ③墓 ④死者の世界 ⑤静かな場所 なんてのが出てきました

さて、訪れたのは「佐敷ようどれ」です。琉球三山統一を成し遂げた尚巴志のお父さん、尚思紹とその家族のお墓です。ちなみに尚巴志のお墓は読谷の伊良皆、佐敷森(さんじゃーむい)にあります。

佐敷ようどれは、航空自衛隊知念分屯地の中にあります。事前に電話して、「今日午後行っていいですか」とお伺いを立てておきました。入口で代表者の名前などを書くと、自衛官の方にフレンドリーに案内してもらえました。(道案内兼見張り人としてでしょう)

素人の僕は、飛行機もないのになんで航空自衛隊なんだか聞いてみました。すると、知念基地はミサイル基地!なんだだそうです。海をはさんだお隣から撃ってきたら、ゆたしくうにげーさびら。(宜しくお願いします) 自衛隊車両には必ずつく桜マークの航空自衛隊バージョンです。

 佐敷ようどれの正面です。自衛官の方のお話だと、こちらに拝みに(うがみに)来る人も結構いるそうです。清明(しーみー)に来る、多分一族の人もいるそうです。

 琉球政府の認めた文化財だそうです。(琉球政府は第二次大戦後、沖縄が日本に返還されるまで存在しました)

番外3 フッチャー石

 尚巴志の弟、手登根大比屋(てどぅくんうふひゃー、と読むと思う)が明から持ち帰って、アカバンタ(バンタ=崖)からブン投げて、ここに突き立ったと看板に書いてありました。フッチャー石のフッチャーって、名前の大比屋(うふひゃー?)が訛ってフッチャーになったのではないかと想像します。

その⑩ 受水走水(うきんじゅはいんじゅ)

受水 

走水は右手のほうにあるのですが、シマッタことに撮り忘れました。

御穂田(みーふだ、だと思う)

親田(うぇーだ、だと思う)

アマミキヨがニライカナイから稲の種を持ってきて親田に植え・・・ と案内板にありました。

番外4 仲村渠樋川(ナカンダカリヒージャー)

ホントは垣花樋川に行くつもりだったのですが、東御廻りをナメてた僕は、島ゾウリなみの薄い底の靴を履いてきたもので、琉球石灰岩のデコボコに足の裏が痛くて痛くて・・・ 垣花はあきらめたのです。(実はすでに知念グスクで「失敗した」と思っていたのです)

 なんとも趣のある樋川です。映ってませんが(スマソ)黒い四角の窓の右手には五右衛門風呂が付設されています。

 左手には古い立派な石畳道がありました。大きなガジュマルが枝を広げ、木陰を作って、とてもイイカンジな場所でした。

お向かいが仲村渠児童館。難読苗字で有名なナカンダカリですが、仲村渠って地名もあるのです。

南部探訪(東御廻りを中心に)其の三に続く(たぶん最終回)

1日南部探訪(東御廻りを中心に)其の一

友人にクルマを出してもらって、南部を廻りました。

私は沖縄ではクルマを持っておらず、いつもは路線バスと歩きなので、保栄茂(「びん」と読みます)の交差点が見つけられなかったり、受水走水(うきんじゅはいんじゅ)は未だ行ったことがない、という状況でした。今回は友人のクルマがあるのを幸い、東御廻り(あがりうまーい)を巡り、さらに過去の宿題(見つからなかったトコ)を片づけることにしました。

東御廻りとは、琉球を作った神様のアマミキヨがニライカナイからやってきて、田んぼを作ったり、グスク(城)を作って住みついたところ(霊場)を国王や聞得大君(きこえのおおきみ:チフィウフジンガナシ:最高神女)が巡礼したことに始まります。

その① 園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき)

東御廻り(あがりうまーい)の出発点。首里城にある世界遺産です。皆さんもご存知だと思います。ここは何度も訪れたことがあるので、パスにしました。

その② 御殿山(うどぅんやま)

 拝所(うがんじゅ)とは、神様が存在または来訪する聖域で、祈る場所です。御神体はありません。ここ御殿山は天女が降り立ったところだそうです。国王、聞得大君が久高島(アマミキヨが降り立った島)に渡るときの発着地だったそうです。

その③ 親川(うぇーがー)

 聖泉です。霊力を授かるそうです。御新下り(うあらうり)のおりにはお水撫で(うびぃなびぃ)の儀式(再生)が行われたそうです。祠の真ん中に三つ巴の紋がありました。

 親川の公園の敷地にこんなのがありました。与那原の大綱引きも有名で、盛んです。残念ながら開館は午後からで、入れませんでした。

その④ 場天御嶽

 琉球を統一した尚巴志の祖父、佐銘川大主(さめかわうふぬし)が祀られている御嶽(うたき)です。場天となっていますが、地名では馬天のようです。

急坂を自転車を押してきたオジーの話だと、山崩れで流されて場所が変わったそうで、周りにはイビ御嶽、上場天御嶽、下場天御嶽などが点在しています。

そして、きっと当時のままであろう石畳道がありました。

その⑤ 佐敷上グスク(さしきうぃぐすく)

 尚思招、尚巴志親子の居城あとです。写真は月代宮(つきしろのみや)です。8代の王様を合祀しています。とても神聖な感じで、気持ちの良いところです。ウグイスも鳴いていました。雰囲気だけ、22秒の動画です。

  とても大きな相思樹がありました。大きいのですが、枝先には小さな黄色の花がしっかり咲いていました。ご存じの方も多いと思いますが、「相思樹の歌」はひめゆり部隊の生徒さんたちが唄っていた歌です。 ・・・切ないので、ここには詳しくは記しません。お調べください。

その⑥ テダ御川(てだうっかー)

 拝んで(うがんで)いる先客がいたので、遠景です。ティーダ(太陽)の神様が降り立ったところで霊泉があったそうです。国王や聞得大君が久高島参拝のときにはノロ(ヌルとも。祝女と書く。私の解釈では世襲の女性国家公務員)がオモロ(古歌謡)を謡って航海安全を祈念したのだそうです。

駐車場から380m、海岸を歩いていくのですが、これが気持ちよかった。適度な風が吹き、向こうには久高島、エメラルド色の海。 綺麗。

アダンが熟れていました。 下を見ると 初めて見ました。この実の繊維が丈夫で、草履を作ると聞いたことがあります。

その⑦ 斎場御嶽(せーふぁうたき)

皆さん、ご存知ですよね。ここも何度も行ったことがあるので、今回はパス。

番外1 昼食

 こちらのランチビュッフェを食しました。結論は「正解」でした

  あまり言うことをきかないペッパー君が出迎えてくれました。(僕が彼との付き合い方を知らないのでしょう)

 しゃぶしゃぶしていただく温野菜、グラパラリーフ(カルシウム豊富)、ケイヌ、ビタンカ・・ 何だかわかりません。

で、お代わり。 と、これだけ一人で食べたわけではありませんよ。

さらにデザート・・ 黒人参茶です。濃い紫色で、山盛り入れると真っ黒です。美味しいとまで言わないけど悪くない、です。

さて、やっと午前中が終わりました。午後の道中はまた次回です。

南部探訪(東御廻りを中心に)其の二 に続く

日帰りの石垣島

石垣島には、となりに竹富島、由布島、由布島、ちょっと遠くに西表島、波照間島などあるのですけれど、今回、とある事情で那覇から日帰りせざるを得ませんでした。(20:15には那覇の久茂地にいなくてはならない最重要の事情があったのです。この事情はいずれ記します)

石垣からフェリーで15分の竹富島には寄りたかったんですけど、竹富滞在時間が1時間しか取れないとわかり、断念しました。となれば、少しゆっくり石垣を廻ります。

川平湾です。

 絵葉書でおなじみですね。 1月の沖縄としてはとても珍しいことに雲一つない青空で、最高のコンディションでした。

 この船、宙に浮いているように見えませんか?透明度抜群です。

本島に残した(ゴルフに行った)友達から「箱亀でTシャツ買ってきてくれ」という依頼がありました。 このお店です。 今どきの女性のセリフなのですが、いわゆるとても「かわいい」柄です。とぼけた味がとても好い。無地のTシャツしか着ない僕としては珍しく柄物を2枚買いました。娘のアクセサリーと。 このブログをご覧の方にもお薦めです。

玉取先展望台です。これまた絵葉書通り。

リーフの先は急に深くなるらしく色の違いが鮮やかです。

でも・・・楽しみにしていた具志堅用高記念館は閉館してました。

ダッシュで石垣から那覇に戻った1日でした。

ホエールウオッチング

友達とホエールウオッチングに行きました。

三重城の港(みーぐすく:国際通りからクルマで15分ほど)から、クジラのポイントまでボートで30分ほど、という身近な場所です。

僕は2度目です。前回は残念なことに、相当遠くにしかクジラが見えませんでした。サバァッってシッポが見えるのは望遠で撮った写真だけかと思ってました。

でも「そうでもないですよ」って他の人から言われて、再び 友達と行って来ました。映像は友達の携帯です。ちょびっとですが、雰囲気はわかります。

今の時期、クジラの子供がまだちっちゃいんで、息継ぎにちょくちょく出てきます。10分に1度くらいのチャンスがあります。 こんなボートで、みんなでクジラを探します。運が良いとこんな近くに出てきます。 なんか、嬉しかったです。