沖縄滞在記 (11/7~11/21) 14日目 11月20日 那覇まちまーい「命(ぬち)どぅ宝」 高良食堂

今日は「那覇まちまーい」という観光協会のガイドツアーに参加します。「命どぅ宝」(ぬちどぅたから)コースです。以前と違って、ネットで予約、クレジットカード決済です。最小催行人員2名で、催行されなければ返金します、というちょっと引っ掛かる決済方法です。 今日のコースは開催されるようです。

当日、早めに儀保駅に到着し、浦添尚氏の浦添さんのお家の横を通って、琉球国王尚氏の子孫、尚さんのお家に向かい、お家の隣(敷地内)にある指司笠樋川(さしがさふぃーじゃー)に立ち寄りました。

階段を降りたところに樋川があります。
かつてはこんな看板がありましたが、今はありません。

「まちまーい」は首里杜館(すいむかん)待ち合わせです。ガイドさんと同行者1人、観光協会の見学1人というグループでした。

まず「西のアザナ」に登り、首里の町と東シナ海までの光景を見渡しました。「おもろまち」から「泊(とまり)」のあたりです。昔は中国の冊報使がたどった道なのですが、WWⅡでは米軍が艦砲射撃を行い、上陸、進撃してきた道なのです。途中にはシュガーローフ(1日のうちに4回もてっぺんの旗が変わったと伝わるほどの激戦地)もあります。

首里城地下には総延長1000mにわたる第32軍司令部壕が作られました。その入り口に案内されました。そりゃ首里城が真っ平になるはずです。

ガイドさんから沖縄戦の終了は9月7日と伺いました。終了したのは、私は6月23日「慰霊の日」だと思い込んでいました。実はそれは牛島中将自決の日であり、その後も戦闘は続いたのだそうです。沖縄戦終結のきっかけとなったのが6月23日で、正式に降伏文書にサインしたのが9月7日とのことでした。

水かさが減った龍潭池のわきを通り、一中健児の塔へ。 過去、何年も那覇に住んでいながら、私は気づきませんでした。ナンバリングスクール、一中は今の首里高校だったんです。二中が那覇高校なんです。・・・当然といえば当然です。

一中の生徒は通信隊(走って命令を伝える伝令兵)といった役割だったそうです。頭が良いから。 319柱の職員・生徒を失ったそうです。彼らの名前が碑に刻まれています。その中に「尚」の名字をお二人、見つけました。ガイドさんの話では「戦時中、食べ物がなくなり、皆がイモを弁当にしていたところ、尚さんは二段重ねを持ってきていたそうです。しかし、彼は『皆で食べろよ』と自分は手をつけなかったそうです」 そして一緒に戦う。ノブレス・オブリージュですね。尚さん一族は本ブログ「驚きのチコちゃんに叱られる」編でも紹介していますが、本当に尊敬できる人たちだと思っています。

まちまーい終了後、沖縄そばの人気店「ほりかわそば」に向かいましたが、すでに行列状態。そこで「首里そば」に向かいましたが、今日は定休日。

そこで先日、ランチは先着順と聞いた富久屋に向かいました。夜はコースだけ、昼はアラカルトもできると聞いていたのですが、残念ながら昼は何種類かの定食が選択できるだけ。富久屋さんの「うむくじぷっとぅるー」を食すチャンスは失われました。

中身汁定食です。夜の「コース」の品数が減ったイメージです。残念。

手頃で雰囲気の良い琉球料理のお店でしたが、簡略化してしまったようです。同じようなお店として、以前「琉音」を紹介しましたが、こちらは閉業。さらに「ままや」も閉業しています。でも、あぐー豚のしゃぶしゃぶで有名(来沖芸能人御用達)な「まつもと」は場所を少しだけ変えて、こちらは営業していました。

今日の晩ご飯は高良食堂です。「ゆし豆腐そば」と「煮込み」です。

「煮込み」です。
スーパーの棚に、東京では見ない列を見かけました。

11月21日 15日目 に続く

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