小岩歴史散歩 第7回 最終回 番外編 岩槻慈恩寺

今から10年前、江戸川区小岩に住んでおりました。その時、ある広報誌に掲載したものです。写真は散逸してしまい(悲しいかなSDが見つからない)、文章だけで申し訳ありませんが、当該地域の知り合いの間では(一部の人間関係のなかでだけ)評判になったものです。いささかの故あって、この度紹介いたします。

一里塚のちょっと北から「岩槻街道」があります。なぜ小岩から岩槻に街道が? 

その答えは、前に一之江の名主屋敷に行ったとき、出会った学芸員の先生に聞いておりました。その昔「行徳の塩」を運ぶ道だったのだそうです。塩といえば瀬戸内なのですが、徳川家康が安定供給のために江戸でも塩づくりを奨励したのだそうです。

なぜ岩槻の慈恩寺まで? となれば行ってみるしかありません。

辿り着くと立派な天台宗の古刹です。寺領百石だそうですから、たいしたものです。徳川様からの庇護があったことが伺えます。社務所でお話が聞けたらと思ったのですが、窓も扉も開けっ放しのまま誰もいません。ま、お守りを黙って持っていっちゃう人はいないんでしょうけど。

案内板に驚きました! 玄奘三蔵法師の「霊骨塔」がそばにある!というのです。あの「西遊記」の三蔵法師のお骨ですよ。びっくりして早速飛んで行きました。

すると、昭和十七年南京駐留の日本軍が、土木作業中に玄奘三蔵法師のご霊骨を発掘して、その分骨が日本仏教会に贈られ、現在この石造十三重の塔に納められているのだそうです。

こんな驚きがあるから、休みの日には体はウズウズ、気持ちはワクワク、行ってみなくちゃわからないとばかりにお出かけするわけです。

さてしばらく綴って参りましたこのコラムですが、このへんで一旦休憩にしたいと思います。また、面白いネタを仕入れまして、お目にかかりたいと思います。皆さま、ありがとうございました。

小岩歴史散歩 第6回 「一里塚」ってどこから一里なんだろう 其の四

今から10年前、江戸川区小岩に住んでおりました。その時、ある広報誌に掲載したものです。写真は散逸してしまい(悲しいかなSDが見つからない)、文章だけで申し訳ありませんが、当該地域の知り合いの間では(一部の人間関係のなかでだけ)評判になったものです。いささかの故あって、この度紹介いたします。

前に聞いたことがありました。一里塚の近くには「渡し」があったそうです。「渡し」ってくらいですから、河っぺりに違いない。例によりまして、自転車でウロチョロしておりましたら結構簡単に見つかりました。(実は前回の「逆井の渡し」を見つけるのは2度の捜索が要ったのです)

千葉街道の市川橋を渡った左手に小岩市川の関所跡があります。その解説のなかに佐倉道がありました。

これがまた、どうもおかしい。佐倉道って千住から始まるらしいのです。日本橋から佐倉に行くにあたって、なぜ千住や新宿(にいじゅく)を通るのでしょう。さらに、関所跡の小岩側には「御番所町の慈恩寺道道標」があります。

どうも関所になる前は番所だったらしい、とも思いましたが疑問はここから。道標には「右 せんじゅ岩附志おんじ道」とあるって解説に書いてありました。岩槻って埼玉です。岩槻慈恩寺って何のご縁があって、この小岩から街道があるの? これはまた、例によって実地踏査しよう(行ってみるしかない)と思い定めた次第です。

その前に、佐倉道です。古い地図を見ると、日本橋から日光街道千住の宿、水戸街道新宿(にいじゅく)、そこから分かれ南下して小岩市川の渡しから下総へ、というのが幕府公認佐倉道でありました。さらにその先にある成田詣での人も多く、成田道とも呼ばれたようです。

つまりは《「一里塚」ってどこから一里なんだろ?》の答えは、当時の要衝であった千住の宿(千住宿は品川宿、内藤新宿、板橋宿と並ぶ「江戸四宿」の一つでした)から二里目でしょう、というのが結論です。

でも日本橋から佐倉に向かうのに、千住経由はどうみても遠回りです。佐倉の殿様は公認佐倉道をお通りになったのでしょうが、普通の旅人は元佐倉道(平井~逆井~五分一~小岩市川の渡し)を使ったのでしょう。

次回は埼玉岩槻の慈恩寺のお話です。これがまた、かなりのビックリ発表がありますのでお楽しみに。

小岩歴史散歩 第5回 「一里塚」ってどこから一里なんだろう 其の三

今から10年前、江戸川区小岩に住んでおりました。その時、ある広報誌に掲載したものです。写真は散逸してしまい(悲しいかなSDが見つからない)、文章だけで申し訳ありませんが、当該地域の知り合いの間では(一部の人間関係のなかでだけ)評判になったものです。いささかの故あって、この度紹介いたします。

一里塚から話題は五分一(ごぶいち)へ。今回は五分一のお話です。

結構、日本中にあるんです。五分の一(市)とか四分の一とか。
実は税率だったり、水利権や、作物の権利の取り分だったりするそうです。」

小岩の五分一の由来はというと、いろいろあって、定説はないようです。私の入手したところでは、①「権兵衛さんちの淵」が元でゴンブチ、それが訛ってゴブイチ ②湿地だったから、余りに貧しくて2割の税金(年貢米)で勘弁してもらった ③天領だったので税率が優遇されていた ④川魚の産地でした。魚の税金は2割だった(魚はお米に換えて払ったとも)⑤日本橋から船橋までの5分の1の地点(なんともユニーク!)などがあります。どれだったのでしょう。

さらにこれを調べる過程で、これまたわからない話を聞きました。五分一のあたりにも一里塚があったというのです。でも現在未発見だそうです。

五分一橋は昔、行き交う人で賑わっていたそうです。遊郭もあったとか。日本橋寄りに逆井の渡しがありました。今は旧中川に架かる「逆井橋」にその名を残しています。歌川広重の浮世絵に描かれているところです。

ところで千葉街道って、五分一橋に八蔵橋、菅原橋に二枚橋です。これが昔の元佐倉道です。橋だらけです。昔はよっぽどズブズブだったんでしょうね。

だいぶお話が横道にそれてしまいました。もとのお話に戻って、一里塚ってどこから一里なんだろ? についてはまた次回から再開します。

小岩歴史散歩 第4回 「一里塚」ってどこから一里なんだろう 其の二

今から10年前、江戸川区小岩に住んでおりました。その時、ある広報誌に掲載したものです。写真は散逸してしまい(悲しいかなSDが見つからない)、文章だけで申し訳ありませんが、当該地域の知り合いの間では(一部の人間関係のなかでだけ)評判になったものです。いささかの故あって、この度紹介いたします。

五分一橋(ごぶいちばし)聞いたことはあるけど、どこだっけ。まずは行ってみよう、自転車で。(単身赴任なのでクルマがありません)

千葉街道を中川の方まで真っすぐ行ったところで、信号の名前にありました。でも、もう川なんてなくて、信号と碑があるだけです。面白い地名だな~と思いつつ碑を見ると「元佐倉道」という道があったとのことです。千葉の佐倉に行く道なんだ、そうなのか、じゃ、なぜ佐倉に行く道があったのでしょう。

インターネットで「佐倉」と引くと堀田氏の名前が出てきました。江戸幕府末期の老中です。ハリスと交渉した人です。(2019年の今、加筆訂正させてください。堀田氏は幕末だけでなく、戦国時代以来の名門です)

というくらいで幕府の偉い人の家に行く道ですから、佐倉道は五街道に準じる重要さであったのでしょう。でも、ここ五分一の碑の佐倉道には「元」がついています。ということは、普通の「佐倉道」もあったということです。

さてそれはいずこに・・・。その疑問にトライする前に調べたい、興味がありました。五分一という地名の由来です。

なんでしょう、5分の1って。

閑話休題 「五分一」には3等三角点があります。地図を作るときに基準になる点です。お店屋さんの前の道路の、白線の上にありました。ご興味のある方は…. あんまりないですよね。

小岩歴史散歩 第3回 「一里塚」ってどこから一里なんだろう 其の一

今から10年前、江戸川区小岩に住んでおりました。その時、ある広報誌に掲載したものです。写真は散逸してしまい(悲しいかなSDが見つからない)、文章だけで申し訳ありませんが、当該地域の知り合いの間では(一部の人間関係のなかでだけ)評判になったものです。いささかの故あって、この度紹介いたします。

私の勤務する○○は、この6月おかげさまで○○周年となりました。その記念行事で「50年前の写真展」を開催しました。お立ち寄りいただいた方も多いと思います。

そのなかに、何気ない、そんなに目を引くこともない小さな祠の写真がありました。それが昭和30年代の「一里塚」でした。ほんとに塚があったのです。

今は区役所通りの出口のあたりに信号の名前でしか残っていません。そこで私の悪い癖、いや好奇心がムラムラと頭をもたげてきました。

「一里塚」は日本橋を起点に一里ごとにある、くらいの知識はありました。ということは、そもそもこの辺に街道があったはずでして・・・ ここから私の小岩めぐりが始まりました。

まず地元の商店街の人に訊きました。「あのへんはね~、昔『渡し』があってさ、関所があったんだよ」

そうでしたが。街道と言えば「五街道」くらいしか頭に浮かばなかった私ですが、関所まであったという、このあたりは何街道だったんだろう?と、思っているうちに、翌日。

「高橋さん、聞いてみたらさ、五分一橋から一里じゃねぇかってさ」と早速情報が入りました。この親切! なんとも下町であります。それも「五分一(ごぶいち)」なんて、なんともチャーミングな付録付き! だって、5分の1ですよ。

疑問は膨らむばかりです。実は後から思えば、一里塚は千住宿から二里目であったと江戸川区史に載っているのですが、まずはゴブイチに行ってみました。

・・・続きは、次回をお楽しみに‼


小岩歴史散歩 第2回 「鹿骨」縁起 其の二

今から10年前、江戸川区小岩に住んでおりました。その時、ある広報誌に掲載したものです。写真は散逸してしまい(悲しいかなSDが見つからない)、文章だけで申し訳ありませんが、当該地域の知り合いの間では(一部の人間関係のなかでだけ)評判になったものです。いささかの故あって、この度紹介いたします。

鹿島の神様、武甕槌命(たけのみやつちのみこと)を勧請したのは、768年に平城京鎮護のため創建された春日大社でした。

「春日大社って、あの、鹿がいっぱいいる奈良公園の?」 そうなんです!

言い伝えですが、鹿島大神は白い神鹿(しんろく)に乗って、大勢の鹿を引きつれ、1年がかりで奈良までお移りになったそうです。(一部には飛んで行った説もありますけれど)

・・・ということは、ご存知奈良公園のあの鹿は、鹿島神宮の鹿のお友達か兄弟の子孫だった‼ のです。

そして、我が小岩の「鹿骨」は、そのお移りになる途中、神様の杖の役割をしていた鹿が倒れたまさにその場所だったのです。

もちろん想像ですが、ツジツマはピタリです。これに気づいたとき、私は暫く声を失いました。

そしてさらに調べてみたくなったのは、・・・「ということは静岡あたりにも、鹿島の神様がお移りになった痕跡が残っているのでは?」ということでした。

これは、今度の異動で静岡か愛知になったら、その時、調べることにいたしましょう。

次回は、疑問は深まるばかりの「一里塚」についてです。

小岩歴史散歩 第1回 「鹿骨」縁起 其の一

今から10年前、江戸川区小岩に住んでおりました。その時、ある広報誌に掲載したものです。写真は散逸してしまい(悲しいかなSDが見つからない)、文章だけで申し訳ありませんが、当該地域の知り合いの間では(一部の人間関係のなかでだけ)評判になったものです。いささかの故あって、この度紹介いたします。

「鹿骨(ししぼね)」という地名、これって昔ここに鹿がいたってことでしょうか。転勤してきてすぐ、そんな疑問を持ちました。海が近いこの辺に、鹿。どうもイメージできません。

鹿骨3丁目の鹿骨小学校となりの「鹿見塚(ししみづか)」の碑にその答えはありました。

鹿島大神(おおかみ)がその昔、奈良に向かう途中で、杖としていた神鹿(しんろく)がこの地に倒れ、ここに祀られたのだそうです。

そうだったのか!と納得した、のですが、さらに次の疑問が涌いてきました。神様はなぜ、奈良までいったのだろう、奈良のどこに行ったのだろう? という疑問です。

鹿島神宮って、とても古い社(やしろ)です。「神宮」とつくのは、その昔は伊勢神宮、香取神宮、鹿島神宮、だけだったそうです。香取、鹿島の神宮は大和朝廷の前線基地だったって話もありますが、その格式の高い鹿島神宮から天照大神の命により、分霊して奈良の春日大社に向かったのだそうです。

なぜ、奈良から勧請されたのか・・・

そして「大ビックリ」は・・・、また次回をお楽しみに!!