尚巴志のお墓

ウチナンチュ(沖縄地元民)でも知らない人が多い尚巴志のお墓です。

王様のお墓といえば、首里の玉陵(たまうどぅん)です。こちらは有名で規模も大きく、訪れる人も多い、でも第二尚氏以降の王家の墓です。

北山、中山、南山の、三山に棲み分けていた琉球を統一したのが、尚巴志(童名「さはち」、尚巴志は当て字という説も。中山世譜では尚姓を明から賜ったことになっている)でした。

ウチナンチュには人気の高い英雄ですが、何故かみんな、お墓がどこにあるか知りません。

歴史は勝った人が、自分に都合が良いように書き換えるものです。尚巴志王統から王の座を簒奪した金丸(第二尚氏の始祖、のちの尚円王)としては、三山統一の英雄、尚巴志の色を消したいと思うのは当然だと思います。

金丸のクーデターのあと、第一尚氏の家臣(親戚)が一族の遺骨を掘り出し、中部の山中に隠したと思われます。

ネットの先達の記録を参考に、レンタカーを借りて行ってみました。

まずは喜名番所で観光マップをゲットしました。 観光マップは表には出ていないのですが、係のアンマーに言うと、出してもらえました。

尚巴志のお墓に行こうと思う、と云うと、私の頭のてっぺんから足まで見渡して、「アナタの思っているより険しいよ。木や草もこうやって行くようだ」と腕を左右に振るのです。「今どきだからハブの心配もあるし」と脅すのです。梅雨の時季で、小雨交じりでもありました。

アンマーに道順を教えてもらい、出発しました。ネットでは「米軍嘉手納弾薬庫地域として接収されていて、黙認耕作地」だとか「警告看板がある」などと書いてあったので、行っていいものなのか、ちょっと心配だったのですが、これで安心しました。

その「警告看板」がこちら。

国道58号線から向かう道は未舗装です。未舗装道路を走るのは、以前の東村行き以来です。もちろんすれ違いはできません。でも轍(わだち)があって、車が通ることを示しているので、さほどの心配はしませんでした。

途中には こんな妙に新しい石標があり、行って見ると、こんな拝所がありました。離れて写真を撮りたいのですが、後ろが急坂で、濡れた落ち葉でフカフカで下がるのは困難でした。ハブも怖かったし。

こんな石畳も一部にありました。 確かな歴史を感じさせます。

上ぬカーで突き当りです。伊良皆集落の皆さんの管理なのでしょうか、意外なほど綺麗で、水量も豊富です。大きな亀がいましたが、カメラを用意している間に潜ってしまいました。

ここが墓所への入り口です。

右の石標がこちらです。 

こんな所を進みます。 濡れたジャングルは雰囲気があります。いい感じです。でも土がむき出しのところは滑りますし、枯葉の積もったところはハブが怖いですし、なんか神経を使いました。

この細道の途中にも、小さな拝所がありました。

クルマの通る道から100何十メートルといったところでしょうか、多少のアップダウンはありますが、そんなに遠くないところにこの石標がありました。

石標の右上の墓所の全景がこちら。

お墓の中央です。 墓所の知名度は低いとはいえ、日常で拝む(うがむ)人がいるのです。

南部佐敷出身の成り上がりにして(誉め言葉です)、中山王武寧を追っ払い、南山王他魯毎(たるみー)を滅ぼし、北山王攀安知を自死させ、という策士にして相当な暴れん坊だったに違いない尚巴志ですが、一代の英傑に違いなく、畏敬の念をもって手を合わせました。

その後、阿麻和利のお墓を探したのですが見つかりません。ガイドマップには道もなく、この辺、て感じで人にも聞いたのですが、無理でした。

トリイ通信施設入口(トリイステーション、グリーンベレーもいる)です。 

その先にはこんな交差点がありました。 信号を拡大すると・・  なんて目出たい・・・

 

次に目指したのは 赤犬子宮です。琉球古典音楽の始祖です。詳しい物語は沖縄にありがちな、おゲレツ伝説を含みますので、ご自身でお調べください。

ウガンでいる人がいました。 なので遠景です。お重まで持ち込んで本格的です。これが、綺麗なネーネー(若い女の子)2人です。向こうも驚いたでしょうけど、僕も驚きました。

さて、沖縄生活も短くなった僕には、もう一つ行かなくてはならない場所がありました。

  

  米軍上陸の地碑です。鉄の暴風といわれた攻撃はここから始まりました。こんな綺麗な所で信じられませんが、あんな光景を見たくない、やっちゃイカン、と思いました。

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